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静かな波に乗って

はろー。 まとめ記事は書いたけど、雑記はこれが最初だね。

冬休みが少し長めにとれたので、ゆっくりと読書をして過ごしてる。穏やかな感じが良いね。

2015年の記事をすべて読み返していたけど、大体次の3つのことで悩んでいた一年だったみたいだなあ。

  • こんな働き方ではあかん
  • 転職どうしよう
  • 理屈だけではうまく行かんのだなあ

1つ目のは明確な答えは自分の中で出ていないけど、目的と照らして自分が何をするべきかとか、どこまで仕事を拾うか、は考える時だと思った。あまりそれで守りに入ると、存在価値がなくなってしまう可能性もあるから、塩梅を見つけるまでが苦労するかもしれないな。

2つ目のは、ひとまず落ち着いたからOK。移る気が今はなくなりました、という旨の連絡をするのだけ億劫だけれど、仕方がないね。

3つ目のは、徐々に体に染み込んできているところかなあ。そして一番でかい変化、なんだね、周りから見ると。

理屈を通す、合理性を保つ、って凄く聞こえはいいんだけど、自分側の話でしかないというか、自分の世界の理屈しか結局通せないんだよな〜ってやっと気付けたのはでかいなあ。ものさしは一つじゃないというかね、そんなのおかしいよね、はあくまでこちらの視点で見てることが多くて。

こういうの考えると、人と話すときのコミュニケーションも少し違う感じになるんだなって。見たいもの、聞きたいこと、知りたいこと、考えたいことしか、結局見ることも聞くことも知ることも考えることも、できないんだなって気付いた。だから、その方向性を変えることに時間を費やすのも並行して必要だろうけど、まずはその相手が望む形に合わせて出してあげるのが必要なんだなあって。それが自分の本当に出したいやり方と多少違うとしても、ここだけは、って局面以外では目を瞑ることが必要なのもよくわかった気がする。

なにがあったわけではないんだけど、この半年くらいの間に自分の身の回り、それは仕事もプライベートもだけど、そこで起きた様々なことが束になって、不意に目が覚めた感じ。まだまどろんでいるけどね。

そうそう、それと面白いことに、誰か助けての「誰か」に自分がなると、自分の時間を有効に使えなくなる、っていう思いを以前から強く持っていて。特に学生時代とかはそのやり方のおかげで人よりも時間が作れて、自分のために時間が使えたとは思うんだ。だけど、最近、その「誰か」が誰でもいいなら自分でもいいんじゃないの?なーんて思う時もあって。

これはどっちが大事、じゃなくて、中庸を取ることが求められているんだよね。助けたい人が「誰か」と求めているなら、助けるその「誰か」は自分でもいいんじゃないの、なんて感じで、ちょっとバランス取れたようなね。

そうしようと思ったわけではないんだけど、なんだか片寄せした価値観が理想的中庸に乗ってきていて。ああ、良い年だな、って、そして良い年になるな、って、そう思えたよ。

思い浮かんだこと思い浮かんだ順にだらっと書いていくといつもこうなるね。ふふ。ま、それもありかな。

今日はこの辺で。おしまい。=^._.^=

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