論理と感情と

 はろー!
URL変えてから、検索流入数がめっちゃ減ってます。予想はしてたけど^^;
今、「はむ」で検索してみても、以前のURLが表示されるだけで、新しいURLの方はまだ出てこないんだよね‥早く更新してくれないかしらん!

さて、今日は少し話し合いになりました。
テーマは、論理と感情。

実はこのテーマ、俺にとっては凄く深い問題だったり。
過去に既に、2人の女性と話をしたことがある。
寧ろ、これも原因の一つで、付き合うか否か、の結果が悪い方へ転んだ(と俺は思っている)なんていう苦い経験も。

今日あった指摘は3つ。
1.論理的に話す必要があるのか
2.論理的でない意見を受け入れない姿勢はどうなのか
3.言葉に出来ない感情の存在を認めるべきなのではないか

正直、自分でもどうしようもないくらい、自分は論理に縛られているし、ややもすれば、論理一辺倒になっているってことは自覚がある。
そのきっかけや、それを推し進めた理由も自分の中ではわかっていて、しかも、これに基づく生き方が自分にとっていくつかの方面でより良いから変えるつもりもあまりない‥が。

が、周りが必ずしもそうであるわけではない。
だからそこがdiscommunicative(意味は分かるんだけどなんて邦訳したらいいかわからない。敢えて言うなら、非疎通的といったところか)になる要因なのかな、なんて。

そんな、感情でものを言われてもわからない。
というのが、最近の自身の反応というか、浮かんでくる気持ち。

語弊があるかもしれないけど、敢えて言えば感情は方言で、論理は標準語のような。
しかも、その方言は一定の地方といったまとまった単位で共有されるものではなくて、Aさんの方言、Bさんの方言、といった個々人毎に持っているもの。

このような認識の下で俺としては、こう考える。
・勿論、方言で話している方が自然で楽なのはわかる。
・距離の近い人(恋人、家族、特定の友人)の前では自然体でいることが許されるのでは、という認識もわかる。
・話しているうちに徐々に理解が進むとはいえ、各個人の方言を、どうしたって100%は理解出来ない。
・理解出来ない方法で意思を伝えようとされても、それは伝わらない。
・そもそも、相手と話す際には意思を伝え、又相手の意思を受け取ろうとする気持ちを持つことが必要。
・ともすれば、結果的にお互いが理解し合える、標準語で話すべき(1つ目の指摘に対する回答)。

これに対して、完全に合点は言っていなかったみたいなのだけれど、とはいえ良い反論が思いつかなかったらしく、考えがまとまった時にまた話したいということで休戦。

この、俺が持っている認識が話し相手との間でcommon senseにならないと、当然だけどdiscommunicativeになる。

論理的に話さないということは、少なくとも論理的に話す場合に比べて、相手に対して自身の意思を伝えようという気持ちが薄い、即ちそれは相手を尊重する態度が薄いと考えられ、故に失礼に当たり、その態度からではコミュニケーションをとるに値しない。

こういった考えがどうしても頭にはあるから、論理的に話されないと、その時点で畳み掛け(ている、という風に言われた)てしまうらしい。
ただ、2つ目に指摘されたこと(論理的でない意見を受け入れないのはどうか)も最もで、そういった態度は最早目的を忘れているというか。元々、論理はさっきの比喩で言うところの「標準語」であるわけで、その標準語を使うのは、コミュニケーションの為なのであって。
要するに伝わればいいんだよね。

その目的に立ち返れば、勿論言う側が論理的に話すことを心掛ける必要があるけれど、他方で言われる側はそこに感情的な要素が入り込んできても、論理的なものに還元して受け止めようとする姿勢は必要だよね(2つ目の指摘に対する回答)。
これは間違いないな、って思った。自分が早々に直すべきポイント。

じゃあ、その上で言葉に出来ない感情の存在を認めるべき、という3つ目の指摘はどうか。
これについて、俺は存在はするかもしれないけれど、努力によって感情を論理に昇華出来るはずなので、その本人の努力不足、とはいえ、2つ目の指摘に対する回答と同じく、努力不足だからと言って受け入れないのは問題(3つ目の指摘に対する回答)。

とはいえ、これも、論理的に話すこと、考えることに慣れていない人は、どうしたって感情を論理的に説明して相手に伝えようとすることに時間がかかるんだよね。だから、単に努力不足とするのは、それはそれで問題かな。良い表現が見つからなかっただけなんだけど。笑

因みに、若干、俺自身は感情を論理の下位概念として認識している節があるのだけれど、これについて以前議論を交わした友人はこう言っていた。
「感情のままで存在すべきものもある。論理的に語らず、感情のまま語ること、それに価値があるというのは間違いなく存在すると思う。権威を求めるわけではないけれど、過去にもそういった主義主張は繰り返しなされてきている。」

で、これについては、やっぱり同じように感じている人も多くいるようで。
それこそ、よくある逃げ道としての「価値観の違い」なのかもしれない。なにせ、こういったことに、正解はないのだろうからね。
でも、ともすればお互いがお互いの主張を繰り返して、平行線を辿るだけってことになる‥ということは、この根本的な部分に対する認識・価値観の違いを持った人たちっていうのはずっと相容れないのかもしれないなあ、なんて。

少し論調が変わるかもしれないけど、ポジショントークとしての側面もあるよね。
論理的に話せる人ほど、論理的に話すことの重要性を説くと思うんだ。
論理的に話すことが苦手な人は、もしそう考えてしまったら自己否定になるから、当然そうは考えにくいよなあって。

それに、俺自身、自分の周りにいる人に比べれば論理的に考える方で、そういうのが得意な方ではあるけれど、でも、自分よりも論理性の高い人も何人も目の当たりにしていて。
で、そういう人の前で話しているとき、論理が抱える逃げ道のなさに不安を覚えるというか、冷たい気持ちにさせられることもあるんだよな、確かに。

あとは、芸術を良しとすることとか、派生してデザイン性の良いものに対する対応が、この論理への考え方だけじゃ弱いような。
勿論、その、個々人の感情との合致度合が‥とも考えられるんだけれど。

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つらつらと書いてしまったけれど、これが自身の考え方だったり。凄く受け入れてもらえる時もあれば、その逆の時もあって、common senseにはならないんだなって。

それを、俺自身がどう受け止めるか、つまり、論理に対する認識の甘い人が沢山いる(からそのような人たちは考えを改めるべし)、といった形で考えるのか、それとも、感情に対する認識を重視する人もいる(から現状の自身の考えを改めるべし)、といった形で考えるのか。
どう認識するのかによって、自分が取る動きも全く変わってくるんだよね。

面白い問題だけれど、同時に大変に難しい問題でもあるなあって。

それにしても、読みにくい文章!
論理性の話もいいけど、もっと物事を構造的に捉える練習をして、人に伝わりやすい話し方・書き方を身につけたいな。

よし!やるだけ!
Bye.
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